汚れ仕事を他の人が

http://d.hatena.ne.jp/hoshimin/20050313#1110725011
にからんで「平和主義者たちが暴力を放棄できるのは、ほかの人々が彼らに代って暴力を行使してくれるからだ」ってのが、何という本に載っているのか調べようと思っていて、そのまま忘れていました。7ヶ月以上経っていますが、ふと思い出して、締め切り間際の現実逃避に調べてみました。くだんの警句は「ナショナリズム覚え書」("Notes on Nationalism")にて出てくるもので、原文は検索するといくつか見つかります。(たとえば、"http://www.resort.com/~prime8/Orwell/nationalism.html"など。)

オーウェルナショナリズム(Nationalisum)というのを、愛国心(patriotism)とわけて考え*1、また、ナショナリズムにかなり広い意味を与えています。

愛国心は軍事的な意味でも文化的な意味でも本来防御的なものである。それに反して、ナショナリズムは権力欲と切り離すことができない。すべてのナショナリストの不断の目標は、より大きな勢力、より大きな威信を獲得する。といってもそれは自己のためではなく、彼がそこに自己の存在を没入させることを誓った国なりなんなりの単位のために獲得することである。
 ナショナリズムという言葉が、ドイツや日本やその他の国に見られるような、まぎれもない形のナショナリスト運動についてだけ用いられる場合には、こんなことは分かりきったことである。たとえばナチズムのように、われわれとしては外から観察できる現象を前にした場合には、たいていの人が同じ意見をもつであろう。しかし繰り返して言うが、私はほかにもっと適当な言葉がないから「ナショナリズム」という言葉を使っているのである。私が使っている広い意味でのナショナリズムには、共産主義、政治的カトリシズム、シオニズム反ユダヤ主義、トロッキズム、平和主義、といったような運動や傾向も含まれる。それはかならずしも政府や国家に対する忠誠を意味せず、ましてや自分の国に対する忠誠を意味するものではない。またその対象となる単位が現実に存在することさえ、かならずしも必要ではない。二、三の明瞭な例だけをあげても、たとえばユダヤ世界、回教世界、キリスト教世界、プロレタリアート、白色人種といったものがすべて熱烈にナショナリスチックな感情の対象になっているが、それらが果たして実在するかどうか、大いに疑問の余地を残すものであり、そのどれひとつをとってみても万人の等しく認めるような定義などない。

ナショナリズム覚え書」より((ジョージ・オーウェル(著), 鶴見俊輔他(訳), 「オーウェル著作集III」, 平凡社, p346-347, 1970.))

実際の国家や集団だけではなくて、心の中にある故郷のために不断の闘いを闘うといったところでしょうか。「私には帰るべき北朝鮮がない」とのたまった大江健三郎さんも、オーウェル風に言えば、ナショナリストなわけですね。


そして、上のような考えを受けて、くだんの警句があるわけです。実際にはもっと多くの言葉を重ねていて、上の引用だけでは十分じゃないんですが、さすがに全部引用するのは気が引けます。

 心のどこかにナショナリスチックな忠誠心や憎悪を宿している人にとっては、ある種の事実は、ある意味で真実だと分かっていても認めることができない。ここにあげたのはほんの二、三の例に過ぎない。以下に五種類のナショナリストを例示し、そのそれぞれに対して、その型のナショナリストとしては、自分ひとりの心のなかででも認めることのできないような事実を補足しよう。

 イギリスのトーリー主義者。戦後のイギリスは昔日の勢力と威信をもたないであろう。
 共産主義者。イギリスとアメリカの助力がなければソヴィエトはドイツに敗れていたであろう。
 アイルランドナショナリスト。エールはイギリスの庇護によってのみ独立を保ち得る。
 トロツキストスターリン体制はソヴィエトの大衆に受けいれられている。
 平和主義者。彼らが暴力を「放棄」できるのは、ほかの人々が彼らに代わって暴力を行使してくれているからである。

 これらの事実は、個人的感情さえまじえずに見ればいずれも明瞭至極なものである。しかし上にあげた人々にとっては、それらはまた耐え難い事実でもあるがゆえに、否定され、そしてその否定の上に偽りの理論が作りあげられるのである。

ナショナリズム覚え書」より(ジョージ・オーウェル(著), 鶴見俊輔他(訳), 「オーウェル著作集III」, 平凡社, p360-361, 1970.)

『平和主義者。彼らが暴力を「放棄」できるのは、ほかの人々が彼らに代わって暴力を行使してくれているからである。』の部分ですね(原文、"PACIFIST. Those who "abjure" violence can only do so because others are committing violence on their behalf.")。なお、オーウェルは「ナショナリズム覚え書」で平和主義については、上の短い引用だけではなく、もっと多くのことを書いています。

まあ、上の言葉から自分が思ったのは「世の中には多くの汚れ仕事があるけれども、他の人がやってくれているから、自分の手を汚さずにすんでいる。そういうのわすれちゃあだめよん」ってなことでしょうか。

また、オーウェルナショナリストの定義は、かなり応用が利くんじゃないかと考えます。右も左もなにがしかを胸に抱いて(心の故郷と呼べるような)、突き進んでいるわけで、どちらもナショナリストと。

自分は「ナショナリズム覚え書」を読んでいて、いろいろと刺さってくるものがあったというか、いてててて〜というか……。……この辺でやめときます。墓穴掘っちゃいそうですから。

*1:当然といえば当然ですか。