ジュンケツキョウイクと社会構築主義

純潔教育って聞くと、なんとも背中にうすらざむいものが走る。馬鹿馬鹿しい話だ。俺は自分が俗悪な人間なので人に助平するななんて言葉は言いたくない。もっと助平しろとも言いはしないが。そんなものは人の勝手だ。
ただ、アレも社会構築主義的な考え方(極度な)にたてば、うまくいっても不思議じゃない。助平なことをするなっていう条件付けというか教育をうまい具合にすれば、あんまり助平する気の起きない人間に成長すると考えてもおかしかないと思うんのだ。
でも、助平するなと言われたぐらいで、性欲がお行儀よくなるなんて思えないし、やるなと言われてもやりたいたぐいのことだから(女の事情はしらんが、すくなくとも男はそう)、そんな教育が成功しようはずがない(まあ、穏当で、好きなときに性欲をオンオフできる技術でも開発されたら、成功するかも知らんが)。
んで、いつもなら社会構築主義に親和性の高い人たち(俺が念頭に置いているのはジェンダー論とかフェミニズムの人)も、純潔教育批判においてはそれを忘れたようなことをいう人がいてる感がある。なんか、都合がいい人がいるなと。性指向やら何やらが後天的にころころ変わるようなら純潔教育が成功する可能性もあるんではないのん?と、俺なんかは思っちゃうんだけれども、さて、どうなのか。ちなみに性指向やら何やらは後天的にころころ変わらないと俺は思っているので、純潔教育なんかもばかげた話だと思っている。
なんにせえ、教育やら何やらで人間をどんなふうにでも変えられるという妄想を抱く点においては、右も左も都合良く社会構築主義になるんだよなあなんて、とりとめもなく考えてみた。
みんな人の心は空白の石版って話が好きなのだろうな。