江戸の男色

[芸術的な日々 : 江戸時代の日本なら堂々と出来たことなのですが]

芸能界のゲイ・ボス、ジャーニー喜多川っていますけど、さんざんセクハラ告発されながら警察に捕えられることも大手メディアに非難されることもないのは、彼の政治力もさることながら、何よりも社会がこういうことにある種寛容なところがあるので、見逃されがちになっているように思えます。

寛容なのじゃなくて、男色っていうものとまともに向き合いたくないからじゃないのでしょうか? 社会的に広く受け入れられる男色のあつかいって、たいがいは型にはまったものです。うちらの社会が男色とまともに向き合っているなら、レイザーラモンさんみたいな芸風は眉をひそめられますよ。たぶん。実際、あの人、ゲイじゃありませんし。

[文化・外国人に教えられる日本]

本の著者はアメリカ人であるが、アメリカ人に日本人の知らない日本について教えられたのだ。全く奇妙な体験である。「ラスト サムライ」、「SAYURI」、「硫黄島からの手紙」などで驚くのは、外の人間の方が、客観的に日本を見渡せるということである。まさに「灯台下暗し」ということであろう。

「外の人間の方が、客観的に」っていうのは、日頃見慣れすぎていて見過ごしているもの、身近に過ぎて客観視できないものを、外の人間は気づくことができるってものだと思いますが、江戸時代の男色なんて、現在の僕らからしても、遠いモノです。かつての習俗は続いているものもありますが、今は失われたものは多いです。僕ら現代人は、江戸時代にしてみれば「外の人間」です。そして、日本でもかつての男色について研究している人はいて、書籍もいくらか出ていますし、少年ジャンプの漫画にすら、昔、そういうのがあったというのをにおわせる描写がありました(『花の慶二』)。
これは、単に記者さんのアンテナに、その手のネタが引っかからなかっただけのことで、「灯台もと暗し」なんてものじゃないと思います。

以下、余談。
かつての男色は、性愛の主流ではなく、遊び*1であったから、許されていたもので、今も昔も、本当の意味で男色を認める(たとえば、男同士で結婚したりすることが認められいる)ような文化は、本邦にはなかったと思います。強い男なら、男も抱けて一人前ぐらいのノリに思えるんですが。男しか愛せない人は、迫害されたこと今と変わらずと想像します。

(引用先、トラックバック受けつけてない模様。)

*1:男色でも刃傷沙汰はあったわけですが、たわいない遊びでも、そこに力を入れていれば、喧嘩になったりしてもおかしかありません。