参考文献

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資料の原典を明示しないところ。自分の書いた文章において、資料や参考文献の作者名、文献名、出版者名、初出年月日を明記するのは、学者にとっては当然のルール。引用文の原典を特定できないような文章は、学生の提出したレポートであれば減点対象である。

というのは至極まっとうな話です。
ただ、秦郁彦先生の文章冒頭のジョージ・オーウェルの引用で原典が明示されていないことに対して、学者としてダメであるというのは、無茶です。
秦先生の文章を読む人がどういう人たちであり、その人たちにとってジョージ・オーウェルがどういう人であると考えられるか、オーウェルを引用している部分が論旨全体の中でどういうものであるかということを無視してしまわなければ、「学者としてダメ」というのは成り立ちません。
秦先生の文章が載っているのは学士会という仰々しい会の会報で、対象としている読者はインテリ層といって差し支えないでしょう。ジョージ・オーウェルは歴史とか政治に興味のある人なら目にしているだろう有名な人物ですから、学士会館報の読者ならオーウェルがどういう人物であるか、どういうことを言っているかなど知っていることを期待しても問題ないはずです。もちろん、オーウェルを引用して重要なことを論じるなら、そんなことを考えるのは問題外ですが、秦先生がオーウェルを引用している部分は、読者の注意をひく(客のつかむ)には重要ですが、論旨全体にとってはどうでもいい部分です。無くなっても困りません。オーウェルの想定される知名度と、オーウェルを引用した部分の論旨全体に対する重要度からして、参考文献を明示しなくても、秦先生が学者としてダメだと言われるようなものではありません。参考文献を明示すれば、学者として「より」誠実だとは思いますが、書かなくても不誠実とかダメとか言うのはおかしいです。そして、論旨に関わる部分では秦先生は参考文献を示しています(字数の制限もあるでしょうから、ページ数までは書かれていませんが)。
参考文献の明示という問題でいうなら、秦先生の文中にて読み飛ばしてかまわないオーウェルの引用よりも、読み飛ばせない、無くすことができない最後のくだり、ランケによる歴史家の任務の定義がどういう文献で触れられているかを明示していないことに突っ込みを入れる方が、まだ、正しいのではないかと思います。もっとも、ランケによる定義にしても、マルクスの「各人は能力に応じて提供し、必要に応じて受け取る」なんかを参考文献明示しなくてもまず文句が出ないと思えるのと同じように、ランケの先の定義も参考文献明示しなくても文句は出ないんじゃないかとは思います。
(追記)
上の反論は元記事の人が秦先生がダメだと言っていることの一つに過ぎず、それも参考文献の明示は他の部分に比べたら大した問題じゃありません。他に関しては判断できるだけの知識がありませんから、特に何も言う気はありませんが、他の部分が間違っていたら、僕の書いたものなんか関係なしに、秦先生の書いた文章は間違いでしょうね。
(追記:2005/10/21)
紹介した記事で見た平和主義者云々のオーウェルの言葉について書いたので、久々にこの記事を読み返してみたら、なんかぐだぐだと書いているなあ。(笑)
言いたいのは、「テーマと深く関わるところで他人の論を引用をして原典を明示しないのはいかんけれど、さわりの部分で細かいこと言わんでもええのでは? もちろん、さわりの部分でも原典を明示してくれたなら、そこからまた色々調べられて嬉しいので、より良いとは思いますけれども。」ってなところです。