何が崇高か?

★J憲法&少年A★: 日本の岐路」にて紹介されている片岡義男という人の文章は「先見日記 insight diaries」のものか。
……勘弁してくれよって感じだ。

当時のアメリカで頂点に達した感のあるリベラリズムが、自国ですら出来なかったほどに理想的な実験を日本で試みようとしたから、新憲法は理想主義的なのだ。

……つまりは、自分たちのところではとうてい受け入れられないぶっとんだしろものを敗戦国の憲法としてくれたわけ? なんともむかつきますね。
あと理想ってのは現実から大きくはずれたら、ただの妄想じゃないの? 今なお残る多大な苦しみを残した共産主義も、かつては理想だったわけだ。

崇高な実験、という言いかたをよく目にする。そのとおりだ。そしてそれにふさわしい効果を上げた。戦後の日本を戦前・戦中のそれとくらべてみれば、この両者のあいだにもたらされた落差は、崇高と形容するに値する。

戦前・戦中の日本と、戦後の日本との差を崇高と形容する。
「正義」を胸に抱いた人たちが互いの正義をつぶし合い殺し合ったり、テロリストを世界に輸出したりなんてこともあった*1。自分たちには落ち度もないのに北朝鮮に拉致された人たちや、その家族にひどい言葉を吐く人はいくらでもいる。自分自身、あの人たちの家族が帰ってきたなら、どれだけよいことかと思いつつも、今の僕らの国ではどうしようもないのではないかと。そして、自分の家族がさらわれたとしても、あきらめて、ただ自己欺瞞の中に一生を終えるのではないかと考えてしまう。そこかしこに溢れる冷淡さ。戦後の豊かさや、さまざまな自由は素晴らしい。けれども、同時にどぶに捨ててしまったものもどれほどあることか。
僕は、今、社会にある多くのものを受け取って生きている。今を貶めるつもりはない。ただ、戦前・戦中には当時の良いもの悪いものがあり、今には今の良いもの悪いものがある。そうとだけ思う。
戦後の何を見て、崇高などという言葉を使うのか。
崇高という言葉を地に落とし、安っぽいものにするというなら、戦前・戦中と今との差を崇高と言ってもかまわないけれども。

現実に合致しなくなったから改正するとは、崇高とすら言われた理想を捨て去ることにほかならない。

僕らのために、理想がある。理想のために、僕らがあるわけじゃない。

日本政府のような場数を踏んでいない人たちが現実的になろうとすると、現実に引きずられるだけとなる。

場数を踏んでいないのは、僕ら国民も同じ。あなたの書いた文章が、その証左。自分は場数を踏んでいるとでも思っているのか? 現実的になろうとしようがしまいが、現実には振り回される。引きずられる。まだ、現実的になろうと努力する方がまし。世の中、しない方が良い努力というのは、いくらでもあるけれども、やらないことにはどうしようもないだろう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20050718 の話を見るまで、自分も全然その手の話に思い至らなかった。