活人剣、平和な時代の客寄せ文句

よく剣術ものに活人剣なんて言葉が出てくるわけですが、あれって平和な時代に剣術を売り込むためのプレゼンテーションだよね〜と思います。
平和になると、剣術の必要性はぐっと下がります。平和な時代、そろばんはじく技術を買われて仕官できた人が、自分も武士だから、剣術でも学ぼうかと考えて、同僚にそういうことを言ってみた。すると、「君の手はそろばんをはじくためにある、そのために雇われたんであって、それを剣術なんかやって怪我でもしたらどうするんだ?」と、同僚に諫められたとか。どこで読んだか忘れたけれども、平和な時代の剣術の扱いは、悲しいけれども、そういうものでしょう。剣術の価値が下がる時代というのは、ありがたい時代ではあります。そういう、きったはったをあまり考えないでいい時代に、客を集めるために美しいお題目を考えて、宣伝する。もしくは、「平和な時代に人殺しの技を研鑽して、あんたら何考えているんだ?」というふうに突っ込みが入るかもしれない。そういう、くだらん言葉をかわすための方便であるのかもしれない。現代、各国の軍隊が予算を獲得するために色々と吹き上げるのと似たようなもの。
人間、自分のやっていることにけちを付けられたくないし、飯を食えるだけの金が欲しいわけで、そういう方便をどんどん言えばいいと思うんだけれども、最初に言った人は方便でも、聴く方は真に受けたりする。もちろん、真に受ける人がいないとプレゼンテーションは失敗って事なんだけれども。そして、真に受けた人が、その言葉を次に言うときは、当然、本気で言う。方便はどんどん使えばいいと思うけれども、真に受けるのはやっぱまずいよねえと思う。思うけれども、方便を使った人間が、それは単なる方便だとは言えない。言ってしまえば、せっかく集めた客(弟子)も逃げる、かわしていた突っ込みとも、また向き合わなければならない。方便を方便のままに、最初に言った人間は、この世からさようなら。そして、方便を真に受けた人だけが残っていく。
活人剣ってそういう言葉なんじゃないかなと、最近思ったりします。まあ、剣術の歴史とか詳しいことを知らずにテキトーなことを言ってますが。とはいえ、世の中に必要なのかどうかを問われる状況に陥ったものは、色々とむりくりな理屈をこねてでも自分たちの価値を世に訴える必要があるってのは、剣術に限らぬ普遍的なお話でしょう。

なお、活人剣には、
[電影あれこれ]

 ついでながら、これは「るろ剣」とはあんまり関わりないことだけど、「活人剣」と「殺人剣」の誤解についても書いちゃおう。
 例えば「おぬしの剣は人を傷つける殺人剣だ。殺人剣は戒めねばならぬ。人を活かす剣、活人剣を目指さねばのう」てなクサイ科白が時代劇などで見られる。本来は「活人剣」と「殺人刀(せつにんとう)」といい、新陰流の祖、上泉伊勢守によって提唱された概念である。「活人剣」は相手の斬りたいところを斬らせて技を引き出して、その動きの裏を取って勝つ為の法であり、「殺人刀」は相手の斬りたいところを斬らせず技を封じて、押さえつけて勝つための法をいう。言い換えると、人を活かして働かせ、その動きがつきたところを撃って勝つのが「活人剣」、働かせずして動きを押さえ込んで勝つのが「殺人刀」である。このどちらもが兵法には必要だとされている。
「奪った命の重みで己が奈落へ落ちる剣、それが殺人剣だ」っていう人もいるようだが、「活人剣」と「殺人刀」は両者共に人を斬るのだ。善悪とは関係ござらぬよ。

なんて話もあるようです。