やおいとか百合とか
やおいとは、ホモを好む女性がホモを描いた物語であるにもかかわらず、その正体はホモフォビアすなわちホモ嫌悪の物語だというのです。
典型的な例として溝口氏は、やおいに登場する男同士のカップルが、まず恋愛前には「ノンケの俺が男に恋するはずがない」、恋愛成就後には「オレはホモではない、好きになった相手がたまたま男だっただけだ」といった形で、繰り返しホモであることを否定している点を指摘。性愛関係を持ちつつゲイを否定していることから、「嫌悪の対象は、ゲイ・セックスという行為ではなく、ゲイ・アイデンティティのみである」ことを実例を交えて説明します。
続けて溝口氏は、やおい作品において「化け物あつかいされるオカマ」や「オカマであることを否定するオカマ」、ゲイの自覚があるのに「たとえ君が女性だったとしても愛していた」といきなり「デフォルトとしてのノンケ状態」になってしまう事象を指摘。やおいがホモフォビック(ホモ嫌悪)な言説に強力に荷担していることを、丁寧に検証していきます。
このあたりの話、興味深いです。
あと、大塚英志さんと上野千鶴子先生もやおいがらみの話で侃々諤々やりあったことがあるのだとか。色んな意味で面白いネ。
・[083. 百合の功罪]
しばらく前にみたもの。こちらは百合に関して。
理解があるつもりで偏見を垂れ流してる人もウザいですね。具体的に言うと、「たまたま好きになった人が女だっただけよ!」とか「人が人を好きになることに何の罪もない」とかいう台詞をキャラクターに言わせたり、自分の百合嗜好を肯定するために使ったりする人ね。これって一見リベラルだけど、実は「女性同士の恋愛は許されないことだ」とバッシングしてるのと同じだと思うんですよ。
「たまたま相手が女だっただけ」ということばの陰には、「自分は好き好んで女と恋に落ちたわけじゃないんだ。事故みたいなもんなんだから見逃して」という言い訳が隠れています。さらに、「自分は本来は異性間の恋愛ができるまっとうな人間なんだ(または、男も女も愛せる心の広い人間なんだ)」という言い訳のかほりもします。「女同士の恋はタブーだ」という偏見が根底になければ出てこない台詞です。
「人が人を好きになることに(略)」という言い回しも、似たようなものです。なぜ、「女の子が女の子を好きになることに何の罪もない」と言い切れないんでしょう。結局は女の子同士の恋が禁忌だと思っているから、「人間同士の恋」というフレームにすり替えて合理化しようとしてるわけでしょう。往生際が悪いよ。
やおいも百合も、どっちも似た問題を抱えているようで。
同性同士の恋愛ものが増えて、質が上がって嬉しいと思う人もいるようで、そういうのも目にします*1。ただ、同性愛者じゃない人間の無理解もあらわれていて、そういうのはうざったいんでしょうね。
もっとも、上のような話を紹介しつつも、僕は百合ものややおいもの観るときに、あまりこまかいこと考えません。エロ本読むとき、女性に悪いなあなんて思わないのと同じく。まじめにもの考えているときは色々と気にしますが、性的妄想に耽りたいときに*2、よけいなことは考えません。