道徳的菜食主義

「動物がだめなら、何で植物はいいの?」にまともに返している道徳的ベジタリアンはいるのだろうか?

[ビーガンへの獣(けもの)道]

最悪。

7月27日 動物と植物の境界線
 よく言われることのひとつに「動物がだめなら、何で植物はいいの?」「植物だって苦しみを感じてるのよ」「じゃあバクテリアはどうなの?」みたいなのがあります。だいたいは単なるいいがかりですが、植物の苦しみがわかる人が牛が殺される苦しみを想像できないのは不思議な話です。大量に植物を食べる肉用牛の生産を減らしたほうが、食べられてしまう植物も確実に減るのですから、本当に植物の苦しみを考えての発言であるはずはありません。
 まず、何で人間が植物を食べていいかというと、単純に言うと「植物は人間の食糧」だからです。説明になってないでしょうか? 動物を食べないなら植物も食べるな、というのは人間に「死ね」と言ってるのと同じです。他の動物と同じように人間にも生きる権利があるわけですから、何かを食べる権利も当然あるわけです。ライオンや虎が肉食する、象や馬は草食する、ほとんど100%の人間は草食でも十分に健康に生きていけます。ではなぜ人間は肉を食べるのか? それは人間の飽くなき欲望とそれを支える頭のよさなのでしょう。単純に言って一番の理由は「おいしいから」でしょう。でも生肉はまず食べないわけですから、それに火を通して、肉の中にうじゃうじゃいる細菌を殺して、さまざまな味付けをしてから食べてるわけです。肉の保存にしても冷凍技術がなければこんなに肉が氾濫することはあり得ません。他の肉食動物が肉を食べるのとはまったく違う方法で、「無理して」肉を食べてるのです。
 さて動物と植物の境界線の話ですが、微生物、バクテリアの話になってしまうと私にもよくわかりません。そして特にわからなくてもいいと思っています。ある意味では「すべてのものは連続している」ということができます。しかしそれが「すべてのものは同じである」と言ってしまうのは詭弁以外の何物でもありません。例えば青という色と赤という色の間に境界線はありません。境界線がないから青と赤は同じであるとは誰も言いませんよね。「長いと短い」「重いと軽い」さらには「良いと悪い」の間に境界線があるのかといえば、これもないでしょう。日常的に両極にあるように思えることでも、実はその境界線というのは非常にあいまいなものです。でもそれで特に困ることもないわけです。菜食を攻撃する時にだけその「境界線」を言い出す人がいるのは何ででしょうね。

「動物がだめなら、何で植物はいいの?」は、菜食主義の人に言っているのですよ。動物を食べるのがひどいことだと言っている側には「なんで植物はいいの?」は突っ込みになりますが、肉食っている人間には動物にだって感情移入していないのに、植物にだってしていなくてもおかしくないわけで、何の突っ込みにもなりません。肉食っている人間の方は、植物の苦しみに対して感情移入しなくてもいいんですよ。自分たちへの突っ込みを、なんでそういう返し方するのでしょうね?
「だいたいは単なるいいがかりです」
われわれ、どんなものにも軽重があります。物言わぬ植物がどんな扱いされようと、悲鳴をあげる牛や豚に比べれば、たいがい心の痛みは感じません。動く生き物でも、蚊やゴキブリをたたきつぶしたところで、どうとも思いません。なので動物と植物を同列に扱うのは、ちょっとひどいかなとは思います。バクテリアに関しては、ほんとに言いがかりだと思います。
ただ、道徳的ベジタリアンの人たちの発言を見ていると、命を非常に尊重しているように見えます(違うの?)。そして、動物だけじゃなくて、植物も生きています(生きているのに同意しない人はいませんよね?)。動物の命をそれだけ尊重するなら、植物はどうなの?と、問われてもおかしかありません。道徳的ベジタリアンの人たちが、命に軽重を付けて、ここまでは重く見る、後は知らないという線引きをし、「植物は尊重しない」とするなら、「何で植物はいいの?」といった質問はこないでしょうが、そういうことを言っている人は、みかけません。上の人は『しかしそれが「すべてのものは同じである」と言ってしまうのは詭弁以外の何物でもありません。』と書いてますが、でも、命をどこまで尊重するかに線引きをせずにほったらかしにしているのは、上の人たちのほうで、それに突っ込みが入ってもしかたないでしょう。結局、命には軽重があるとは言えない。正義の上に立脚しているから。それゆえに「何で植物はいいの?」と問われると、まともな返し方ができない。
「大量に植物を食べる肉用牛の生産を減らしたほうが、食べられてしまう植物も確実に減るのですから、本当に植物の苦しみを考えての発言であるはずはありません。」と返していたりしますが、これは「何で植物はいいの?」への解答じゃありません。食べられる植物が全体として減ろうとも、その人自身が植物を食べる量が減るわけじゃありません。無くなるわけじゃありません。
こういうはぐらかしはばかばかしいです。というか、これこそが詭弁です。
そして「植物は人間の食糧」という話ですが、誰が決めたんですか、そんなこと? 植物だって、人間や他の動物に食われたくないんですよ。植物はものは言いませんが、自分を守るために体内に毒を作ります。植物毒ってめずらしいものじゃありません。そこらにある食材でも食べ方を間違うと腹を下したりします。植物もまた食われたくなくて、けれども人間は自分の都合、つまりは自分の腹を満たすために、植物を殺して食っているんです。動物を殺すのも人間の都合なら、植物を殺すのも人間の都合です。
道徳的ベジタリアンが最悪だと思うのは、こういうときです。植物だって殺されたくないんですよ(俺は食いたいから、畑から引っこ抜いて食うけどね。肉も食いたいから、食うよ。)。他の命を尊重するようなことを言いながら、自分たちの都合で、あっさりと、その命を無視する。「動物がだめなら、何で植物はいいの?」にまともに答えている道徳的ベジタリアンっているのでしょうかね? 上の人みたいなのばかりじゃないと思いますから、ホントにきちんと考えている人は、命に軽重を付けてしまうことに、ある程度折り合いを付けて誠実な答えを返してると思うのですが……。
あとね、こういう話で、生きる権利とかいうのやめて欲しい。権利って言葉は、人間同士の約束事であって、人間の発明にすぎない。他の動物や植物とのからみの中で権利なんて言葉を使っても意味がない。人間が他の動物種を殺しまくり植物に好き放題やっているのは、人間の知恵と、知恵が産む力が支えているに過ぎないんですから。