受験がすべて?

つくる会」の歴史教科書を批判している人たちの言葉に、受験に使えないってものがあるんですが……。ちと、不思議に思うのは、受験に使えないと言っている人は、今の受験とかそういうのをどう思っているのかなということです。受験は大事ですが、受験で点を取ることだけがすべてに優先するとでも思っているのか、ちと訊いてみたい気がします。
「受験に使えない」という批判をする人は、相当に受験に重きをおいているように感じられます。日本史は数多くの教科の一つにすぎませんし、受験をなんぼか根性入れて闘おうとする学生なら、どの参考書がいいかといった情報を必死で入手しようとするでしょう。教科書だけしか読まないなんてことは、まずありえません。歴史教科書が少々受験にそぐわないからといって、それぐらいのことで受験を闘えないというなら、それは教科書にではなく受験生本人に問題があります。僕が受験生だった時分、理数系は好きで結構真面目に懸命勉強しましたが、暗記科目だった*1世界史*2は嫌いでほったらかしでした。それでもいくらかは参考書やらそろえて勉強しました。
何もかもを受験のためだけにそろえねばならないというのなら、「つくる会」の教科書は主流派からはずれているわけで、やめた方がいいと思いますけれども、「受験に使えない」ことをして「つくる会」の教科書を批判している人たちは、そこまで受験がすべてに優先すると思っているのでしょうか?


(追記)
そういえば、「つくる会」には公民の教科書もありましたね。
自分が公民の授業ほとんど関係なかったから*3、忘れてました。すぽーんと。一応、あれもセンター試験にありましたね。たしか。
まあ、公民が増えたところで、上の内容を変える必要はないので、それはいいんですが、忘れていた僕は恥ずかしいやつです。とほほ。

*1:センター試験以外では必要なかったので、自分にとっては完全に暗記科目でした。

*2:世界史でしたが、年号を覚えるのとか当時嫌で嫌で貯まりませんでした。

*3:高校一年のときに授業があっただけのはず。