辻井喬さんと数学(続き)

以下の斜体青地にしている部分については、
http://d.hatena.ne.jp/hoshimin/20051229#1135842551
を参照ください。




http://d.hatena.ne.jp/hoshimin/20051108#1131462823 の続きです。

辻井喬さんの講演記録の変更版-大津留公彦のブログ
大津留公彦さんがさらにまとめてくださったもの。
数学がらみのところだけ。

・インドの南のある村でノーベル賞数学者が3人出たがその背景には3つのことがあった。
1.美しい建物が建てられそれを見て育った。
2.すばらしいものを尊敬する敬虔な気持ちを持つ。
3.精神性を大事にする。

「・インドのある村でノーベル賞学者が3人出たがその背景には・・・」が「・インドの南のある村でノーベル賞数学者が3人出たがその背景には3つのことがあった。」と「ノーベル賞学者」が「ノーベル賞数学者」となっていますね。ノーベル賞と数学者ですか……。
ノーベル賞には数学賞はなくて、数学者が他の賞を取るということもあるだろうとは思いますが、どうも違和感があります。数学者ならフィールズ賞ではないのかなと。ただ、フィールズ賞受賞者にはインド国籍の人はいません(一人一人詳細に調べたわけじゃありませんから、インド系アメリカ人やインド系○○人はいるかもしれませんから、インド出身のフィールズ賞受賞者がいないと言い切りはしません)。
少し調べてみましたが、ノーベル賞受賞時にインド国籍だった人は、以下の4人の方のようです。

文学賞:R.タゴール
物理学者:C.ラーマン
平和賞:マザー・テレサ
経済学賞:A.セン

ノーベル賞受賞者で、インド出身で受賞時は別の国籍だった人のことまではわからないのですが、インド出身者に広げてもそれほど数はいないのではないかと思います。また、インド出身であっても、インドを出てからの経験も重要でしょうから、単にインド出身を含めていいかは疑問です。ノーベル賞は「医学・生理学賞」「化学賞」「物理学賞」「文学賞」「平和賞」「経済学賞」、その中で数学者と呼ばれるたぐいの人が受賞しそうなのは「物理学賞」と、ぎりぎり「経済学賞」ぐらいではないかと考えます(上の4人だと、C.ラーマンとA.センですか)。「医学・生理学賞」「化学賞」も数学は重要でしょうが、数学者とまで言われるだけ数学を修めるものだろうかと思います。「文学賞」「平和賞」となると、数学の業績とは関係があるのかどうかもあやしいです。(数学と他の賞との関係については、かなり想像で書いています。おおはずしはしていないと思いたいですが)
この、ノーベル賞受賞者が同じ村から3人出たというのは、どこから出てきた話なのだろうかと思わされます。
この辺の話は辻井喬さんが嘘をついているとは思いませんが、ご専門のことではないわけですし、何か勘違いをしているところがあるのではないかと思います。あと、ご自身の専門ではこういう雑な話はしないのではないかとも。

また、上の1〜3はヨーロッパにも通じるものがあると感じられるわけで、そして、他にもあてはまる国、地域は、あると思います。前に書いたように、インドで優れた数学者が出た村があったとして、感性も大事ですが、それ以上にインドの数学教育の質の高さ(芳沢光雄「数学的思考法」(講談社現代新書)にて触れられています)が重要ではないかと思います。感性の話につなげて、その対極である(と辻井喬さんが考える)うちらの国への批判として、

・それに対して日本の場合には尊敬すべき対象を茶化すというメディアが横行しているし金銭的価値に置きか得られないものは下らない物として無視をする。

とあります。感性を尊ぶ辻井さんの鈍感さに対する批判、それ自体はもっともな事だと僕も思います*1。ですが、その前置きとして上のような形でインドや数学を持ち出すのは、やはり妥当ではないと考えます。辻井喬さんの数学のとらえ方や知識にもおかしなものを感じます。僕は、数学を専攻しているわけではなく、その手のトピックをたまに読んだりしているだけですが、専攻にしている人だとさらに違和感を感じるのではないかと想像します。僕の言っていることの方がおかしいと突っ込みが入るかもしれませんが。
そういうわけで、辻井喬さんは、やはり専門外の数学について、かなり知識はあやしいという印象と、講演をするならもう少し調べた方がよかったのではないかという感想は変わりません。

ただ、「伝統の創造力」(岩波新書)は、検索で引っかかった「松岡正剛の千夜千冊『伝統の創造力』辻井喬」の書評を読んで、興味を引かれたので今度買ってこようかと思います。

*1:なお、ここでそうだよなと、うなずきはしても、自分が感性豊かかどうかはまた別の話です。非常に情けない話ですが……。