平和論は敗者の処世術

時代によって処世術は違います。戦後、敗者(うちら日本など)が「おれたちは負けちゃあいねえ。てめえらの勝ちは認めねえ。」みたいなことを言えば、勝者に何をされるかわかりません。「てまえどもが悪かったと反省しております。もうあのような真似はいたしませんから、どうかお許しください。」ってのを全面に押し出して、勝者にごまをするのは間違っていません。最善ではないでしょうが、かなり正しいやり方だと僕は思います。わが国だけではなく、韓国北朝鮮にしても、当時僕らの先輩方と一緒に戦争をしていながら(まあ、当時同じ国だったわけですしね。というか、当時の朝鮮の人たちも僕らの先輩方なわけですね)、敗戦後、敗戦国側にまわるのが嫌で、それまで一緒にガンホーガンホー、ウラウラベッカンコー言っていたのを、手のひら返して戦勝国側にすりより、戦勝国のような振る舞いを行うようになったわけです。それで三国人なんて言葉が出てくることになるわけですが、あれはあれで正しいやり方だと考えます。同じ敗戦国のドイツにしても自分たちが戦争を行った原因を突き詰めようと哲学者やらが一生懸命研究していたそうです。他にもいろんな活動を行っていますね。敗戦国じゃありませんが、ドイツ以外の国の人たちも、ナチスに荷担した人なんかは自分の過去の漂白に力を注ぎました。
わが国に関しては、憲法9条やら戦後の平和論(平和主義)、自虐史観(自純史観、戦前まっ暗史観)なんかが、まさにそれです。思い至るところは、大所高所ではなく、己がどう生きるかまで。わが国の平和論は本当に世界を平和にするような議論には発展していませんし、よその国にわが国憲法第9条を広めるような活動にもなっていません。わずかにあるかもしれませんが、無視できる程度のもの。多くの人が知っているような運動で、しかも実際に結果を出しているものなどどこにあるのやら。憲法第9条がハーグ平和アピールで採択されたとか言っている人もいますが、大嘘こくのはよせやいってところです。アジェンダ無視すんなやばかちんがってなものです。結局は「自分たちは良い子にしてますから、勘弁してね」のレベルで止まっています。毎年恒例の広島長崎の平和式典なんかは、具体的に何か世界平和に向けてわずかでも進展していくようなたぐいのものではなく、「僕たち/私たちはいつも平和について考えています。」っていう姿を見せるだけの、金の無駄遣い、関係者のオナニーたる虚飾の祭典です。あんなもの、1000年続けても世界平和になんの貢献もしません。まあ、関係者の心の平和には貢献するでしょうけれども。
とどのつまりは、敗戦後のわが国の平和論は敗者の処世術です。
戦争中に鬼畜米英と吹き上がっていた人たち。処世術という意識のあるなしに関わらず、あれは当時をうまく生きるための処世術だったことでしょう。同じ人が、戦後は平和を声高に唱えるようになった。ベクトルの向きが変わっただけで、基本となる人間の心性には何ら変わるところはありません。かつては戦わない者は非国民でした。今は自分を漂白する作業に力を注がない者はゲスな人悲人です。