「科学」ではなく「道徳」では?

宮台真司(1086)
id:seijotcp:20050322#p1より)

ナチズムの本質は「科学」です。中核にレイシズム(人種主義)があり、アーリア人の優秀性を証明するためにあらゆる科学者を動員し、ナチス都市政策を正当化するためにあらゆる都市科学者を動員する。むろん今から見れば、昔の『少年マガジン』の巻頭グラビア特集にあったようなインチキ科学ですが、当時は科学だったことが重要です。

宮台真司先生の使う「科学」っていうのは、科学的社会主義といった使い方をされる「科学」なのでしょうか?
ナチズムの本質は「科学」じゃなくて「道徳」に見えます。「優生学」は「進化論」と、人間や社会をより良くしたいという「道徳」(妄想?)とが混ざり合ったものに思います。まっとうな科学ではなく、「科学」の姿を借りた「道徳」で、結局はそれが「宗教」にまでなってしまったと。ヒトラーは非常に道徳的な人間だったそうですが、彼が損得勘定しか頭にない男だったなら、ユダヤ人虐殺なんて馬鹿な真似はしなかったんじゃないでしょうかね。敵になったユダヤ人はばんばん殺したでしょうが、自分につけば殺さなかったんじゃないでしょうか。今も「科学」の姿を借りつつ、その実身勝手な「道徳」を振りかざしている人は、そこらじゅうにいます。劣化ウランは小型核兵器の人たちとか、社会的な性は、肉体の性に関わらず、社会的文化的な影響によってのみ決定すると言ってる人たちとか。
あとドイツと日本の違いは「科学」とかそんなのじゃなくて、大局的な視点とか、目的を定め遂行しようっていう意志とかそんなんじゃないのかなあと。ナチスは「俺たちの進む道はこれだっ!!」と強烈に定めて、あとはそれを補強する材料として都合がよさそうな「科学」を取り入れてみただけに思います。あくまで「科学」はおまけで、「道徳」やら「理念」が中心にあると考えます。多くの共産主義国も自分たちに都合がいい「科学」を採用してえらいことになりました。んで、日本はその場その場でなんとかやりくりするパッチワークが体質だから、追いつめられてファシズムに近くなったけれど、その場しのぎに過ぎないからゆるいところがあったのかなと。江戸時代なんかも政治をどうするかという理念はほとんどなくて、問題が起きたら場当たり的に法を定めてかわしてみたりと、その場しのぎでなんとかやってきたという話を読みました。今、政治家さんたちが憲法改正を考えているようですが、理念とかそんなのが感じられず、あまり弄ってくれるなと思うわけです。与党野党の別なく、どういう国造りをしていくか、全然考えてないだろあんたらと。自分は、そういうのわかりませんが、政治という仕事を担う人たちがそれでいいのかと、こう頭がぐらぐらします。自衛隊をきちんと国軍として定めて、かつ縛りをもう少しゆるめるのと、あとわずかに手直しを入れるぐらいにとどめておいて、下手に弄らないでくれと思うわけです。話はそれましたが、宮台真司先生は科学とか、あまりよくわかっていないけれども、自説の補強に都合良く使っているような感じを受けます。上でナチスが多くの科学者を動員して自説を補強しようとしたのと同じに……。まあ、偉大なマルクスおじさんも、神が人を作ったという神話を否定するために進化論を取り入れておきながら、人の精神もまた動物から進化したという部分は自分の主張思想倫理道徳などなどと相容れないから華麗にスルーしたという話です。優生学のゴールトンとは違う形で進化論を歪めました。科学の手前勝手な援用は、この手の「道徳」的な人たちの体質なのでしょうか?