「マーガレット・ミードとルース・ベネディクト」 (ぼちぼち……でももういいかな……なんて)

マーガレット・ミードとルース・ベネディクト
上を読んで、マーガレット・ミードとデレク・フリーマンがらみの話が書いてあるというので、反論があるという6章とあといくつかの章をぱらぱらとめくってみました。ちなみに、上のページに出てくる伊藤悟さんは「マーガレット・ミードとルース・ベネディクト」の訳者さんです。
同性愛は素晴らしい*1っていう溢れる想いからくる強引さと、西洋社会のものの見方でそのまんま他の社会を見る姿勢とが目につきます。かなりバイアスがかかっています。フリーマンへの反論は、セクシュアリティに関することがほとんどで、暴力やらなんやらその他については特に関心が無いのかスルーしています。フリーマンは多くの証拠をもって「サモアの思春期」の内容を広く批判しているわけで、セクシュアリティのところにだけ固執してどうするんだろうかと思わされます。また、著者が西洋社会のものの見方をなんら疑うことなく、そのまんまサモアを見て物事を論じているところもあり、総じてあまり価値のある反論には思えません。


最後に上のページに戻ります。

それにしても、驚くのは、ミードの本は59分の4しか翻訳されていないのに、フリーマンのミード批判本は翻訳・出版されているのです。何だか不公平でミードに同情してしまいます。日本の出版業界もセンセーショナリズムがお好きだってことです。売れればいいってことでもあります。ぜひまずは『マーガレット・ミードとルース・ベネディクト』を読んで、フリーマンのような恨みや憎悪や嫉妬を超えていったふたりの世界にふれて下さい。

多くの本を出していても、まったく翻訳されない人なんていくらでもいるでしょう。そんなことで不公平なんていって何の意味があるのか。学術的にミードの本は価値があるから、もっと翻訳が出るべきだという話ならわかりますけれども、著書の総数と邦訳の数の比を比べることに何の意味もありません。「フリーマンのような恨みや憎悪や嫉妬」とありますが、敬愛するミードを攻撃したフリーマンが許せなくて、訳者自身がフリーマンへの「恨みや憎悪や嫉妬」で文章を書いているように見えます。

マーガレット・ミードとルース・ベネディクト

マーガレット・ミードとルース・ベネディクト

*1:異性愛、同性愛、どちらも同程度にいいものであり、かつ同程度にやなものだと考えます。(同性愛と比べて)異性愛こそ真実の愛だという言葉に、「何、つまらんこと言ってんだか」と思うのと同時に、(異性愛と比べて)同性愛こそ真実の愛だという言葉にも、「ああ、そうですか、良かったですねぇ」と思うわけです。