言ってないことで人を批判しても

福田::漂泊言論:オリジナルは存在しない!?
まとめると、「オリジナルというものは存在しない」という言葉と、「創作物は既存のものと、わずかなオリジナリティから成る」という言葉は整合性がないのではないかということ?


「オリジナルというものは存在しない」という言葉に対しては、上のような話も成り立つかも知れませんが、上記記事がリンクを張っている「たけくまメモ: 許される模倣・許されない模倣」では、「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在しない。」としています。もう一つの記事「音極道茶室: 「パクリ」について熱く語らせてくれ」では「あらゆる分野における創造物の99%は「広義のパクリ」である」とし、その補足として「現在、ひとつのメロディーとか、ひとつの音楽の中に本当にある個人が創ったと言える所がね、言える部分がね、何パーセントくらいあるだろうかって良く考える事がある。よくても5パーセントくらいだと思う。95パーセントは伝統、過去のもの。」という坂本龍一さんの言葉を引用しています。
漫画や音楽にかぎらず多くの分野において、先達の業績を消化するのは必須であり、そこに自分のもつ何かを加えることで、その人独自の創作物、業績だと認められるわけです。これは「厳密な意味でのオリジナル(=何もかもがオリジナル)は、この世に存在しない。」と矛盾しません。しかし、「オリジナルというものは存在しない」とまでいうと相容れない。ですから、「オリジナルというものは存在しない」と強く言い切っている人になら、上の記事も意味があるかなと思うんですが、上の記事が扱っている他blogの記事2つ、そのどちらも「オリジナルというものは存在しない」といった無茶な言い切りはしていません。人が言っていないことで、人を批判するのはいかがなものでしょうか。


あと、「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在しない。」といった言葉は最近出てきたものじゃありません。同じような内容はここ数年といったものじゃなくて、ずいぶん昔から言われているものです。また、竹熊健太郎さんが「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在しない。」は「あらゆる創作は、模倣の土台の上に成立している。」と言い換えられると書いていますが、これは「あらゆる創作は、模倣の土台の上に成立している。」が先にあって、それを言い換えたものが、「厳密な意味でのオリジナルは、この世に存在しない。」だと思います。そして、「模倣から始まる」といったたぐいのことは、三島由紀夫なんかも言っているそうですし*1、また日本語での話ですが、「学ぶ」という言葉は「まねぶ」(真似をする)から、「習う」は「倣う」から来ています。他の言語でも似たような話はあるんじゃないでしょうか。言葉は変われど、古くからある考え方です。「オリジナルというものは存在しない」という考えは構造主義の「間テクスト性」が下敷きに云々とありますが、「間テクスト性」の方が昔からある考え方を下敷きにしているのではないかと思います。まあ、哲学とかはわかりませんからはずしているかも知れませんが。

*1:山本夏彦さんあたりが、そういった話を何回か書いているのを読みました。また、三島由紀夫は若い頃に懸命に色んなものを模倣したそうです(文化審議会著作権分科会 著作権教育小委員会(第2回)議事要旨より)。