正義に従わないのは悪? - 性教育バッシング

http://d.hatena.ne.jp/demian/20060126/p1

性教育をバッシングしている人たちって悪人なのでしょうか?
僕は性教育を正しく行うべきだと考えますが、多くの人(僕も含む)がまともに性を扱えていない現状で行われる性教育というのは、はっきりいって恐ろしい。色々問題も出ているから、大人の教育が終わってから子供になんて悠長なことをいってられないけれども、まともに教えられないなら教えない方がまし、同時進行でやるにしても、まずは大人に比重をおいて、やってくれという考えです。
そういう自分の考えを述べたうえで話を戻しますが、性教育をバッシングしている人たちは、性を封じ込めておけば安心というふうな、ちょっと(かなり、かな)考えが足りないだけの善意の人だと僕は考えています。いえ、日本で行われている多くの馬鹿馬鹿しいことのうちいくらかは善意から生まれていることだと思います。善意の前に道理が屈して無惨な結果になっていると。だからこそ、性教育バッシングの人たちのありようは苦々しくて、やっかいで勘弁して欲しい。同時に性教育推進側も自分たちの善意を押さえつけろよと思います。

そして自己決定能力とともに大事なのは、自慰を除けば性行為は相手がいることでもあり、きちんとコミュニケーションを取ることが重要ではとのこと。そんな難しい話ではなくて、まずは自分の意思や気持ちを表明することが大事ではという(嫌なことは嫌、と言うことであって、人の選別を目的としたあのめんどくさい「コミュニケーション能力」の話とは違います)。また教育についても親がちゃんと性の話を子供にすることも大事ではないかと。

このあたりまでは同意なんですが、ただ親が子供にっていうのも難しいんじゃないでしょうか。
僕自身、色々と事情があって、いずれ、わが子ではないけれども性の話とかせなあかんかもと思って、性教育の本なんかを色々と読んで勉強していますが……。じゃあ、実際にそれを言うだんになってまともに知識を伝えられるのか自身はありません。その手の話を、人にどぎつくなく穏当に説明する訓練を受けている大人はほとんどいない。僕もその一人です。特に性のネタは色々といやなものをはらんでいますから言いづらい。妙に恥ずかしがったりはぐらかしたりせずに言うにはなにがしかの練習がいると思うのですが、そういう練習なんてできやしません。僕は言い方をしくじって、子供に言うにはふさわしくないどぎついことを言ってしまいそうな予感がむりむりしています。はぐらかせるなら、はぐらかしたいと、正直そう思いますよ。それじゃだめなんですけれどもね。

ところで、日本では明治時代に西洋文明を取り入れる際にそれまであったおおらかな性文化が封印されてしまい、また第二次大戦後に純潔教育が行われた時期があったそうです。

明治時代に西洋に目がくらんで、西洋人の風俗こそがスタンダードと思っちゃって、恥じる必要もないのに勝手に自分で自分を恥じて自分たちの風俗を改めてしまったのは確かでしょうが、じゃあ、おおらかな性文化があれば性病は蔓延しないのでしょうか?

その影響でまともに性教育を受けていないまるで無知な世代が日本にはいることになりますし、中途半端に明治が好きな人は政府の方針だったことも知らず性のタブー視を「日本の伝統だ」と思うでしょう(もしそういう人が憲法アメリカの押し付けだとか言っていたらなんだかこっけいです)。

性がおおらかだったとしても、知識のあるなし、性を正しく扱えるかどうかは全く別の話です。詳しい話を調べたことはありませんが、昔は梅毒が治らない病気で、けれどもそのリスクになんも考えずに色町やらで助平していたでしょうから(男が連れだって色町に、なんてのは昔も今も変わりません)、今HIVが広まっているのと昔の梅毒と、そう変わらない気がします。まあ、HIVの方は輸血とか注射器のまわしうちとか性行為以外が原因のものも多いでしょうけれども、きちんとした知識をもっていないのは今も昔も変わらないと考えます。性の文化がおおらかだったとしても、性を理詰めで考える方向に進んだかどうかはわかりません。楽しくやってりゃ、それでいいじゃんと「きちんとしろ」と小言(言われる方にとっては)を言う人を煙たがって、話は聞かないのではないかと、そんな風に思います。
また、自分で勝手に自分を恥じちゃって自分たちで風俗を改めたものと、戦勝国の圧力のもとにできあがった憲法とを同列に語るのはどうなのでしょうか? というか、なぜ唐突に憲法が出てくるのか。『性のタブー視を「日本の伝統だ」』と思う人が馬鹿馬鹿しいというのには同意します。

なんとなく性教育をけしからんという人ってこういう層と関係が?という気がします。こうした人たちにどうやってきちんとした性教育を行うのかもわたしたち大人の課題なのかもしれません。

けしからんという人たちには、自分自身ただしく性を伝えるすべがないために、その手の話題に触れたくないために、封じ込めておきたい、子供たちに性を見ないでいて欲しい(そんな希望はむなしいだけですが)という気持ちが多分にあるんじゃないかと思います(まあ、がちがちにおかしな考えに浸っている人もいるでしょうが)。ですから「こうした人たちにどうやってきちんとした性教育を行うのかもわたしたち大人の課題なのかもしれません。」という流れは正しいと思います。ただ、自分が大人だなんて思って人を教育しようと思ったら失敗しますよ? 同じいい年をしたものどうしなら「相手は単に俺/私が知っている知らないだけ、知らない以外は自分と同じ」と考えていろいろレクチャーしないと相手はなんにもきいてくれやしません(少なくとも僕はそういう臭いをかいだら聞きません。よほど自分に得があるなら別ですが)。自分が知識が上というだけじゃなく「人間」として上位にいるとおごっている人間によるご指導って受けたことありますか? 他人の人格嗜好無視して自分の考えを押しつけますから鬱陶しいことこの上なくて、しかも、善意でやってくれますから無碍にはねつけるわけにもいかず、なお始末が悪い。性教育をしなければならないという考え自体は僕も同意しますし、性教育をバッシングする人はどうかと思いますが、自分たちが相手よりも大人だなどと思い上がるのは止めた方が良いのでは? 教育とかそういうのはどうでも良くて、単に批判したいだけなら見下しているだけでもいいと思いますけれども。

それから養護学校での性教育が「行き過ぎた性教育」として、授業で使用する人形が煽動的な形で与党の某国会議員によって取り上げられた事件がありましたが、そのことについて詳しく話を聞くことが出来ました。その学校では知的障害を持つ生徒たちが性暴力の被害者になったり、加害者になったりすることを防ぐために、言葉だけでは伝わらないのでわかりやすく説明するために人形を使ったそうです(性教育先進国のイギリスやスウェーデンではさらにいろいろ工夫されているそうです)。生徒の親御さんと先生方は自分たちがいなくなったら一体誰がこの子たちを守るのか、と悲壮な決意で教育に取り組んでおられるのですが、そうした努力を踏みにじるかのように貶める事件だったのですね。

これジェンダーがらみの本で読んだことあります。なるほどと思いました。それを読むまでは性教育は大事だけれども、これは無茶苦茶だ、なんてことをする連中だろうと考えていました。産経新聞かそのあたりが書いたことだったような気がしますが、ひどい書き方をするものだと思いましたよ。ただ、以下かなり想像が入りますが、これも性教育推進側に自分たちが「正しい」から突っ込みがくることはないと思ってたんじゃありませんか?と、そんな風にも考えました。できるだけ具体的なものを見せて教育する必要のある子供ではなく、知的障碍のない子供にあの人形で教育をしたら、まわりはどう思うのか。僕が親だったとして、あの人形だけ見せられたら、こんなもので子供に性教育を施すなんて、どういうことだと、性を弄んでいるんじゃないかと思います。説明を受けたら、なるほどと思うでしょうが、受け入れるまでに時間がかかるでしょうね。あの人形での教育法に天啓を受けた人たちは、その活用にだけ心がいって、外に広く理解者をつくろうという考えが無かったのではないか、「正しい」ことをやっているから認められるという考えがどこかにあったのではないか、と思わされます。単に人員が割けなかったのかもしれませんが。まあ、でもあの事件を糧にして、先に新聞なんかで自分たちが施す性教育の説明をしておくとか、そういうずるさや、したたかさを持って欲しいなと思います。僕たち日本人は、そういうプレゼンが苦手です。また、うちら人間には「正しい」ことをしていれば認められるという考えに陥りやすいと思います(だから「正しさ」を振りかざす人間は相当な無茶をすると思うわけです)。自分たちの「正しさ」に安住しないようにもして欲しいところです。