内田樹、小田嶋隆、平川克美、町山智浩『9条どうでしょう』

四人の著者のよる護憲論です。内容は、かなりレベルにばらつきがあります。
小田嶋隆町山智浩、両氏によるお話はかなり面白いですし、僕のような改憲論者にもなるほどと思える部分が多くあります。ただ、改憲論者を自分が思う紋切り型に落とし込んで論じるあたりで、かなり疑問を感じます。話題の対象を、なにがしかのモデルに落とし込んで論じるのは、常套手段だとおもいますが、その落とし込み方がなんだかなと。けれども、大筋では面白い文章でした。
残り二人、内田樹平川克美、両氏の書いたものは……。レトリックを駆使して白を黒と言い含めるような話ばかりで、学者先生の与太話で終わっています。香西秀信『論争と「詭弁」 レトリックのための弁明』にて「自分を恋している者よりも恋していない者にこそ、むしろ身をまかせるべきである」という詭弁が紹介されていました。内田樹平川克美、両氏の文章は多くがそんな調子です。内田樹さんから例をとると、

五年前の論考で私が述べようとしたのは「現実が複雑なときには、単純な政策よりも複雑な政策の方が現実への適応性が高い」というごく当たり前のことである。

p22

ある問題に対処するために、問題点を洗い出し対処法を考えます。問題が複雑であれば対処法(上の文中での政策ですね)はある程度以上には単純にならないでしょう。無理に単純にしすぎると取りこぼしが大きくなったり、問題をさらに悪化させたりすることになるでしょう。ですから、無理に単純化した対処法は適応性が低いのは当然のことだと思います。複雑な問題には対処法も複雑にならざるを得ない。ただ、それは単純な対処方より複雑な対処法の方が良いこととは等しくはなりません。それに上では全然考慮外のように見えるんですが、対処法を実行するのは誰かという問題です。あまりに複雑な対処法は能力の高い人ならいいでしょうが、そういう人はごくまれで、多くは僕のような凡庸な人間です。そういう凡庸な者でも実行できるレベルに対処法をできるだけ単純化しておかないと、複雑さをこなしきれずに問題が悪化しかねません。そういった点を考えていないのか、考えると持論の邪魔になるから無視しているのかはわかりませんが、上はとても「当たり前のことである」とは言えない話です。物事を単純に考えるなってことを言いたいんでしょうが、それで上のように言われても困ります。無茶苦茶な物言いです。ちょっと読み進めるとこういうのが次々に出てきて疲れます。
また、希望的観測も多くって、

自衛隊はその原理において「戦争ができない軍隊」である。この「戦争をしないはずの軍隊」が莫大な国家予算を費やして近代的な軍事力を備えることに国民があまり判定しないのは、憲法九条の「重し」が利いているからである。憲法九条という「封印」が自衛隊に「武の正当性」を保証しているからである。私はそのように考えている。

p20

というくだりがあります。憲法九条の「重し」なんてのを本気にしている人がどれだけいるのでしょうか? 力が無いものの言葉には誰も耳を傾けないっていうどうしようもない現実から、まあ、しゃあないかと思ってる人の方が多いのでは? まあ、アンケートを採っても簡単にはわからない問題でしょうけれども。なんにせよ、希望的感想にすぎます。
ここまでで例として引いたのは内田樹さんのものばかりですが、平川克美のも相当にだめです。内田樹さんの方が、まだ、ましです。面倒なので、もう引用しませんが。
護憲と改憲の間でふらふらしている人に護憲論者になってもらいたいとしたら、内田樹平川克美のお二人の書いた部分を破りとって、小田嶋隆町山智浩のお二人の文章を読んでもらうのがいいんじゃないかと思います。うまくいけば護憲論者になってくれるんじゃないかと思いますよ。

9条どうでしょう

9条どうでしょう

[Amazon.co.jp:論争と「詭弁」―レトリックのための弁明丸善ライブラリー: 本]