意気地無しって素晴らしいですか?

[華氏451度:ご一緒に「いくじなし宣言」しませんか]
まず、書いておきます。上の記事には「意気地無しな俺たちでも生きていける世の中がいい」という主張が含まれていると思います。その部分には、うなずきます。がりがりに力を誇示しなければ生きられない世の中はご勘弁願いたい。けれども、「いくじなし宣言」も勘弁して欲しい。そして、意気地無しが多ければ世の中が平和だなどという馬鹿げた話も止めて欲しい。
上で引用されている森毅先生の「なにしろ、生まれてからただの一度も、喧嘩というものに勝ったことがないのだからなあ。負けると決まっていることをやるのは、自殺のようなもので、ぼくはそれほど自虐的でない。」にあらわれていますけれども、意気地無しって単に力がないから、他人に勝てないからマッチョじゃないだけです。内弁慶外地蔵って言葉があります。広く見れば、家の内とは己の力が通用する場所、外とは通用しない場所です。自分の力が通用しない場所での人の振る舞いと、通用する場所での人の振る舞いは往々にして違います。自分が勝てる場所では、人はとたんに意気地無しではなくなります。意気地無しばかり集まれば、その中で一番力のある意気地無しが強く振る舞うことでしょう。逆にマッチョな人もその人の力が通用しないところに連れて行けば、またたくまに意気地無しになるんじゃありませんか? 例えば成田離婚という言葉があります。あれなんかは自分の力が通用する場所での夫の振るまい(女性の前では力があるように振る舞うことでしょう)と、通用しない場所での夫の振る舞い(見知らぬ土地でおろおろおろおろ、ヘタレの意気地無し)の隔たりに失望して離婚に至るってなものでしょう。意気地無しなんて、ただのマッチョの予備軍にすぎませんし、マッチョもたやすく意気地無しになります。僕自身は、たいがいの場所において意気地無しでヘタレですが、自分の力が通る場所でマッチョに振る舞わない自信はありません。上の森毅先生にしても、京大教授*1という力ある立場を頼みにしたことがあるのじゃないでしょうか? まあ、想像するだけですが。
「いくじなし宣言」ではなく、力を持っても持たなくても、変わらなず穏当な人であろうとか、そういうのを呼びかけるなら、ありだなとは思います。めちゃめちゃ難しい話ですけれども。力を持って、なお、それを振るわないというのは、本当に大変な話だと思います。僕は、そんなしんどい生き方せんでもええやんとも思います。無茶をやられてもこまりますから、ほどほどにしてくれや、使い時をきちんと考えてくれやって話ではありますが。この辺の話では「僕/私は力を持っても変わらない」という人多そうですが……。「人はいつまで無実か?」「罪が露見するまで」と言った人がいましたが、そのバリエーションとして「人はいつまで善人か?」「性根を試されるまで」とでも言っておきましょうか。
最後に、マッチョ*2は派手に力を誇示するから目立ちやすい。意気地無し*3は目立たない。マッチョが目立つように、マッチョが犯した罪は目立ちやすい。意気地無しが目立たないように、意気地無しが犯した罪は目立ちにくい。マッチョが派手に世の中をおかしくするなら、意気地無しはじわじわと世の中をおかしくしていく。ホントに、どっちもどっち、ですよ。

*1:現在は名誉教授。

*2:多くの状況においてマッチョな人。

*3:多くの状況において意気地無しな人。