昔のいじめはひどくなかった?

自分なんかも昔と今とで、今の方がいじめはひどくなっているような印象を持ちますが、けれども、今の子供の心が僕らの頃よりすさんだのかと考えると、とてもそうは思えません。僕らの時代のバカと今の子供たちのバカと、そう変わるものかと思います。そういうことをいう人は「自分らは今の連中よりマシだった」と思いたいだけじゃないのでしょうか? 僕らの頃、いじめがひどくなかったって思えるなら、それは「いじめの技術が拙かった」んですよ。きっと。いじめって結構狭い範囲で、そして共犯者以外の人間にはなるたけ見えないようにやるものだと思いますから、その技術はそんなに次の世代に残るものじゃないと考えます。学校という環境では、さらに学年毎に子供たちは分かれています。なおのこと技術の継承は困難です。クラブ活動でいじめをがんがんやっているなら、まあ、技術の継承もあるかもしれませんが、クラブの外まで出ていくのは難しいでしょうし、1年ごとに人がくるくる入れ替わってクラブの色も変わります。確実にいじめの技術が継承される環境というのは学校という場には少ないんじゃないでしょうか。そういう技術の継承がない環境では、方法を自分で編み出していく必要があります。そうなると、よほど頭の良い人間じゃなければ独創的で陰惨ないじめは実行できません。山本七平さんが『私の中の日本軍』で日本軍のいじめについて書いてましたが、たしか頭のいいやつほどひどいいじめをやるとか書いていたような記憶があります。さもありなんと思います。ただのバカにはあまりひどいいじめは実行できません。やる意思がないのではなく、やり方を思いつかないのです。誰かがやり方を教えてやれば、喜んでやるでしょう。そして、今はさまざまな媒体で人をいたぶるやり方が多く紹介されています。それほど独創的じゃない平凡ないじめっ子であっても陰惨ないじめを実行できる環境が整っているわけです。やる気がある人間に方法が提供されているわけです。
ちなみに、そういう情報が子供の目に付かないようにしろとか言っているわけじゃありません。そういうのはナンセンスだと思いますし。単に、昔は良かった式の話に、それってどうなんと言っているだけです。僕は昔も今も人のバカさや賢さに、そう変わりはないと思っていますから、昔は良かった式の話は、よほどのものじゃないと信じられなかったりするのです。もちろん昔の方が空気がきれいだったとか、食い物がうまかったとか、そういう話は信じてますが、人間の質が悪くなったとか*1は、ちょっとね。

*1:おなじく昔より人間の質は良くなったとかいうのも信じるのは難しいです。蓄積された知恵を体得することによって振る舞いが洗練されたとか、そういう話は信じます。それは人間の性根が変わらなくても変わるものですから。